loader image

湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

葉山と片瀬江の島を愛した元祖湘南人

財部彪海軍大臣ファミリーの湘南(その1):葉山と片瀬江の島を愛した元祖湘南人古くから湘南は難病だった結核の療養地や文筆家の仕事場として著名でしたが首都に近く、夏涼、冬暖の心地よい湘南海岸は皇族、華族、政財界人の保養地として愛され昭和時代の初めごろ10年間に別荘文化の最盛期を迎えています。また、横須賀に鎮守府があったことから、大正時代から太平洋戦争開戦前までは海軍軍人や家族の在住も珍しくありませんでしたが一般の政財界人と異なり多くは質素な借家。その代表的な文化人といえるのが財部彪(たからべ・たけし)海軍大将とその大ファミリーです。質実剛健をモットーとする海軍軍人であり、政治家でもあった財部彪海軍大将のファミリーは子供が8人。葉山町と藤沢市片瀬、鵠沼に住まわれていましたが、現在は孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)世代です。軍縮会議が開催された1930年代は侵略による国勢拡大が過去のこととなっており、列強には紛争を敬遠する気運が高まっていました。すでに数多くの植民地や占領地域を獲得していた国々の独善ともいえますが、財部全権はその世界の空気を肌で感じており、列強との資源力や科学力の差を冷静に考え、国際...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

石原慎太郎さんの太陽の季節文学記念碑(追悼)

石原慎太郎さんが2022年2月1日にご逝去されました.ノギボタニカルのデザインチームは2005年に「太陽の季節記念碑」企画をプロデュースし、逗子海岸に石碑を建立いたしましたが心底から湘南文化と海を愛した 慎太郎さんへ追悼のレクイエムとして当時を振り返り、記録を新たにいたしましたいずれ、第2報「海の慎太郎さん」も、おとどけします. 式典を盛り上げてくれた「石原プロ」の炊き出しに近隣婦人会が協力.式典前夜祭には隣人の「みの・もんた」さんはじめ多くの方々が駆けつけてくれました。 葉山在住大学同級生のハワイアンバンドをバックに好きな歌を披露する慎太郎さん.地元のダンサーが盛り上げました.  後援者、友人からの記念碑へのお祝いはメッセージタイル石碑を取り巻く床、壁、階段の全てにはメーセージが込められた花崗岩のタイルが張り巡らされています.この記念碑建立に賛同した全国の慎太郎さんの友人、知人から送られた、心からの贈り物です。 記念碑の構造と素材文学碑の主要部分は石原慎太郎さん、石碑プロデューサーの選択により大理石が使用されています。大理石は南の海とダイビングを愛する慎太郎氏にふさわしいものです。な...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

大正生まれの湘南人「遠藤晴雄」さんと遠藤貝類博物館

1.神奈川県真鶴町岩海岸の遠藤貝類博物館神奈川県真鶴半島の西風を防ぐことができる東側には古くからの住宅地が広がり、「岩」という海水浴場(写真上)があります。1986年遠藤貝類博物館はこの岩海岸に面したところに建設されました。博物館は遠藤晴雄氏の個人運営。訪れる人も少ない小規模な博物館でしたが、遠藤夫婦の暖かい対応がありました。解説は上品な奥様が担当。この博物館に魅せられた初代葉山しおさい博物館長(未確認)竹中さんが採取したタカアシガニなど甲殻類の標本も沢山ありました。また同好の方が蒐集した世界の貝の切手が大量にあり、切手に関心のある方には一見の価値があるものでした。遠藤貝類博物館は世界を始め日本にも多い貝のコレクターが、資金力で買い集めた標本の博物館ではありません。遠藤氏がフィリピンなど海外に採集に出かけたときの標本や購入品もありますが、ほとんどは中学生の頃から神奈川県相模湾の葉山や真鶴などで収集した貝。4500種以上50,000点といわれます。コレクター遠藤晴雄氏のシンボルマークとなったオキナエビスガイ2.湘南人の遠藤晴雄氏遠藤晴雄氏は1915年(大正5年)真鶴町生まれ。真鶴半島は湘...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

湘南を愛しながら湘南人とは距離をおいた住友友成男爵 住友家第16代当主の俣野別邸復元

2017年4月1日、国の重要文化財として大事にされていた第16代住友吉左衛門氏の俣野別邸復元が完成し、近隣の関係者を集めてセレモニーが開催されました。放火?による焼失など苦難続きであっただけに、復元に尽力した関係者の心からの喜びが伝わってきた楽しいセレモニーでした。太陽と海山の自然に恵まれた湘南地方は東京から交通至便。昭和の初めから東京で活躍する全国の政経財界人、文化人など多くの人を魅了してきましたが、京都出身の第16代住友吉左衛門、住友友成氏もその一人でした。しかしながら別邸の立地と住宅規模から察すると、住友氏の場合は湘南を愛してはいても、湘南人との同化は好みではなかったようです。俣野別邸は簡素で質素がコンセプト大財閥当主の別邸としてのスケールを期待する見学者は俣野別邸母屋の狭さ、質素、簡素に驚かされるでしょう。昭和時代初期の湘南に建築されたイギリス風和洋折衷別荘とは大きく異なるからです。政財界人の湘南地方の別荘は会議や大勢の来客を予想して建築されることがほとんどでしたが居住スペースが120坪くらいの俣野別邸の簡素な狭さからは、、ここは純粋に家主と家族だけが利用する住まいということが...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

江ノ島の初日の出と初詣: 混雑を避けて楽しめるロハスケのお奨めスポット

湘南の江ノ島は初日の出、初詣、富士山の見物が同時にできる便利な立地にあります。神奈川県東部の大山との巡礼で多くの江戸の民を迎えた江ノ島は、歴史の深さを感じる魅力満点の観光地。元旦に相模湾の初日の出、江島神社の初詣、ピンク富士、水際の潮風、全てを満たす超欲張りプランはいかがですか。(江島神社は「えのしま」「えじま」の二通りで呼ばれています。)片瀬江ノ島の初日の出:ロハスケのお奨めスポット江島神社初詣の秘訣車でのアクセスと駐車場電車でのアクセスと最寄り駅サミュエル・コッキング苑の展望台 1. 片瀬江ノ島の初日の出:ロハスケのお奨めスポット。三浦半島に阻まれて、相模湾水平線からの日の出を見ることは出来ませんが、太陽が上がるのが岬の突端の低地部分ですから時間の遅れはさほどありません。江ノ島桟橋は歩道(弁天橋)と車道(江の島大橋)が完全に分離されて安全。初日の出には片瀬海岸から島までの歩道(弁天橋)と、腰越から片瀬までの東浜が参拝者で埋まります。江の島桟橋、片瀬東浜は双方共に駅に近いという利点がありますが、観点が低いと太陽が三浦半島のやや高い部分に、より阻まれますから、お奨めできるスポットではあ...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

女性が創り、女性が支えた草創期のワイナリー: 湘南に紹介されたフランス文化

湘南地方にフランス食文化を紹介したフランス帰りの戸田康子さん湘南を人生の拠点として選んだ康子さんは日本のワインビジネス先駆者のひとり。フランス食文化の要(かなめ)のワインも食習慣が無い太平洋戦後の日本には商品がほとんどありませんでした。それなら自分で作ろうと湘南地方で適地を探した康子さん。やっと見つけたのは湘南からはやや遠い現在の相模原市でした。*2004年初版のインプットミスをそのまま引用しているサイトが多いですが改訂版のデータが正解です。写真は著作権で保護されています。ワイン文化が根付かない日本にあって、ゲイマー・ワイナリーは第二次大戦後、50年余りにわたり、フランス・ワイン文化の紹介と普及に努力した日本のワイン史に残るワイナリー。1. ゲイマーワイン(株)のワイナリー1952年(昭和27年)にゲイマーワイン(株)(Gueymard wines K.K)は現在の神奈川県相模原市大野台4丁目1-1の地に創業しました。相模原ゴルフクラブに隣接した16,000坪のゲイマーブドウ園は、神奈川県唯一の本格的ワイナリー。緑の少なくなった同地域では、ゴルフクラブとともに広大な緑地帯を構成。果樹園...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

元祖湘南人「沢田美喜さん」とエリザベス・サンダース・ホーム

沢田美喜さんの祖父が購入した六義園(東京都駒込)。徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が購入し下屋敷として使用したといわれる。湘南文化を語るときに沢田美喜さん(1901-1980)を忘れてはならない。太平洋戦争後(1945年終戦)湘南を世界に知らしめたのが、彼女が創設した混血孤児養育施設のエリザベス・サンダース・ホーム。1948年から亡くなるまでの30数年間だけでも1.400名を超える園児を養育した。創立からすでに65年を超えた現在も100名弱が在園しているが、その創立の経緯、彼女の人生を知る人は湘南でさえ少なくなった。1.エリザベス・サンダース・ホーム とはエリザベス・サンダース・ホームは太平洋戦争後に進駐連合軍の兵士と日本人女性の間に生まれた子らの保育施設。神奈川県大磯駅前の海を見晴らす小山に立地する。単一民族に近い日本での混血孤児養育は日本人孤児と扱いを変えなければならない。親を戦争で失った日本人孤児があふれていた時代に次々に生まれ、捨てられる混血孤児。混血孤児たちの母親も戦争の犠牲者。生活が困窮した若い女性に説教する資格は誰にも無い。国や進駐連合軍が頬かむりしていた混血孤児...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

「湘南人」の音楽家平尾昌晃さんと湘南学園創立80周年音楽祭

湘南で育ち、湘南を愛する音楽家の平尾昌晃さん。平尾さんが小、中学時代を過ごした忘れられない母校が湘南は鵠沼の湘南学園。太平洋戦争後に葉山から大磯までの広い範囲に点在する別荘を居宅に替えた学童の受け皿となり、50年代より戦後湘南文化を発信し続けた学校として知られています。(平尾さんも代々木の本宅が焼けて、別荘に定住した一人です)今年2013年は創立80周年。学園では11月に2日間の盛大な記念音楽祭を開催。卒業生、近隣住民、養護施設、老人ホームなど広い範囲に招待状を出しました。音楽祭は湘南らしく、湘南学園らしく、楽しい音楽ならばジャンルにこだわらず何でもあり。そのメインイベントの一つが2013年11月17日に開催されたポピュラーミュージックの日。3時間近いショーの演出は「湘南人」平尾昌晃さん自身が「歌先案内人」と称したプロデューサー。「歌で繋ごう未来へ」がテーマのライブショーは舞台と客席が一体となって歌い、踊る趣向。彼の思想は「音楽や歌は一人で歌うものではない、一人で聞くものでもない」ほとんどがステージを降りて観客と一体のパフォーマンス。7年前新設された多目的アリーナに本格的な舞台装置、照...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

片瀬聖ヨゼフ・カトリック教会の歴史とデザイン

1.片瀬聖ヨゼフ・カトリック教会(St. Josephs Catholic Church)のはじまり現在の片瀬教会の聖堂は1939年(昭和14年)に建てられたものですが、歴史的には山本庄太郎氏次男、山本信次郎家の一部屋に仮聖堂が設けられた1919年(大正8年)が教会創立とされています。そのいわれは明治24年(1891年)にまでさかのぼります。その夏、片瀬海岸へ海水浴に来たカトリック・マリア会のヘンリック神父(暁星学園創始者)と土地の有力者である山本庄太郎氏(以下敬称略)が出会いました。その出会が、子息・信次郎氏(以下敬称略)の暁星学園入学、受洗という形に進展し、信次郎による片瀬教会の設立につながります。信次郎家に仮聖堂が設けられた大正8年は庄太郎が亡くなった年。その後本堂の建設に20年以上かかるのは、時勢もありますが、相続に関わる諸問題と、片瀬本蓮寺の檀家代表である百太郎本家への配慮があったようです。第二次世界大戦後の片瀬教会は信者数の規模は小さいながらも、湘南においての存在感は随一。教会隣接地の信次郎邸は子息である山本正氏(文化放送)が相続し、孫の信(まこと)氏は聖歌隊のリーダーとし...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

湘南文化とは:終戦(1945年)により芽生えた湘南文化

湘南の人口が急増し、独自の生活文化圏が消滅して40年近くになります。湘南地方と呼ばれる元ともなった生活文化とはどのようなものであったか検証してみました。1. 終戦(1945年)により芽生えた湘南文化敗戦により東京、大阪、神戸など主要都市が破壊され、別荘族のエスタブリッシュメントは都心部の本宅を失い、別荘に定住するようになっていました。湘南の別荘域に移り住んだ主役は明治維新より数えて3代目、4代目の世代。大戦後の復興が軌道に乗り始めたこの時代に湘南に定住した世代には、生活文化と価値観に共通の認識がありました。別荘が多かった大磯、二宮、鵠沼(藤沢市)、片瀬(藤沢市)、鎌倉市、逗子市、三浦郡葉山町などの地域では、住み着いた世代の子息達が教会、学校、ホテル、マリンスポーツなどを通じて活発に交遊するようになります。英語に違和感のない4代目は外来文化に抵抗感がありません。戦勝を謳歌し、アメリカが最も元気であった50年代、60年代の文化。若者は明治以来の堅苦しい先代のイギリス文化より、自由奔放なアメリカ文化に共鳴し、その模倣を始めました。一口に表現すれば、進駐した米国軍兵士が持ち込んだ大衆的な米国西...
湘南文化よもやま話:湘南を愛した人々

湘南でヨットを楽しんだ紅花のロッキー青木: 成功の秘密はファミリーの協力

湘南が大好きで鎌倉市材木座に小型ヨットを置いて楽しんでいたロッキー。夏になると奇抜な衣装でアメリカの大型車を乗り回す姿が懐かしくなります。1960年代の初めに、米国へ単身出かけて、欧米人相手にレストランビジネスを成功させた日本人、ロッキー青木。レストラン経営や起業を目指す、当時の若者にとって英雄でした。米国のマスコミはロッキーをa talkative adventurous figure(多弁で、冒険好きな人) chain's colorful founder.(チェーン店の多彩な創立者の多様な行動と彼の服装を掛けた言葉) などと呼んでいました。第二次世界大戦の後、1950-60年代のアメリカは、戦勝国の中心国として、文化的にも、経済的にも世界のリーダーとなり、隆盛を極めていました。一方、敗戦国の日本の海外貿易は、急増しているとはいえ、輸出入合わせて100億ドルに満たない規模。外貨は不足し、サービス業の海外進出など考えられなかった時代。その時代に米国へステーキレストランチェーンを進出させたこと自体、意表をつく行動でしたが、ニューヨークのマスコミやレストラン業界を手玉にとり、ヒルトンのオ...