我が国の「花見」の起源とされるのは、奈良時代の貴族による“梅を愛でる”もので、
万葉集では「梅」を詠んだ歌が110首、当時から自生していた「桜」を詠んだのは43首に
過ぎませんでした。
ところが、平安時代になると、梅と桜が一挙に逆転しており、
確かに古今和歌集を紐解くと「桜」を詠ったのが70首、「梅」を詠んだのは
僅か18首と変じております。
平安時代に嵯峨天皇が催した「花宴の節」が切っ掛けとなり9世紀末までには「花見」と言えば、
”桜を愛でる“ことで、文字通り「花は桜のみ」を言い、他の花の鑑賞に関しては、
梅見・観梅・菊見・藤見のように言う事が定着していったようです。
なお「さくら」の語源には、古事記に登場する女神「コノハナサクヤヒメ」に由来するという説と、
田の神様の宿る木の古語とする説があります。
木の下に襟こそばゆき桜かな 服部嵐雪
花に酔へり羽織着て刀指す女 松尾芭蕉
その後鎌倉、室町の武士たちも貴族の風習「花見の宴」を受け継ぎ、中でも豊臣秀吉による
吉野の桜見物と醍醐の花見などが歴史を飾っています。
花見が庶民へと広がったのは18世紀、八代将軍吉宗が隅田川土手に百本の桜を本格的植栽し、
並木の花見公園行楽を奨励したことが始まりだとされております。
何でも、人出を多くして堤を踏み固めることで、治水対策も兼ねた名案だったようで、
現在にもつながる花見の名所・向島となりました。
もっとも江戸時代にこの地名はなく、隅田川西岸の浅草側から東岸をみて向こう側と言う
アバウトな地域を指す俗称で、勿論「島」でもなかったのに、島のように見えたので、
「向こう島」と呼び、昭和になって正式地名になったのだそうです。
尚、我が国伝統の花見の文化は、明治以降、海外へも普及して、近隣のアジア諸国は勿論、
米国・カナダの主要都市、パリ、ローマ、スエーデン、デンマーク、南半球でもブラジル、
ペルー、ボリビア、豪州等へ広まり、今や“Hanami”や”Sakura”が全世界で通用語になって居ります。
たらちねの花見の留守や時計見る 正岡子規
みな袖を胸にかさねし花見かな 中村草田男
当時から此の地区は、有名な寺社も多く、料理屋、和菓子屋、茶屋や出店が数多くあり、
遊びには事欠かないレジャーエリアだったので、羽振りのいい武士や商人だけでなく、
庶民も楽しめる行楽のメッカでした。
通常は昼の参拝と花見、飲食を楽しんだのですが、
地理的に新吉原にも近く、夜になると、舟を繰り出して吉原へ向かう際に夜桜見物としゃれこむ人も居り、
酒宴を楽しむ舟遊びの通人も多かったようです。
向島の三大和菓子は、桜餅、言問団子と草餅ですが、中でも最古で門前名物として著名なのが
江戸古地図にも出ている「長命寺のサクラモチ」で、墨堤(旧名・隅田川土手)の桜の葉を塩漬けにして、
三枚の葉で餡子入りの餅を平たく包んだものでした。
三つ食へば葉三片や桜餅 高浜虚子
とりわくるときの香もこそ桜餅 久保田万太郎